それは手作業が生んだ藻琴市街から東藻琴山方向に8キロほど、左手の小高い丘陵10ヘクタールに広がる芝桜の丘。その一歩は、花好きの農家の一人の若者が、終戦直後に庭に植えた一握りの株から始まった。
昭和52年から始まった、生粋の末っ子中鉢末吉さんの執念。一株一株、一坪一坪と8年がかりの丹精を込めた労作の結晶が、滝上町と並ぶ絶景の初夏の景勝となった。
さあ、今年も芝桜の咲く季節がやってきた。東藻琴の芝桜のルーツを、そっと探ってみたい。
芝桜公園を育てて22年
中鉢末吉さん
1918年(大正7年)
大空町(旧東藻琴村)の農家の生まれ。
上藻琴尋常小学校卒業。
兵役、復員の後、農業を継ぐ。
日本善行会表彰2回のほか、観光地美化実践者として92年に道知事表彰。
2009年(平成21年)7月7日永眠。
中鉢さんはゆっくりと話し始めた
離農
「最初の花は、留辺蘂町から運んだ。亡き姉が終戦直後に一掴みづつもらってきたんだ。」畑作農家だった中鉢さんはこつこつと芝桜を増やし、自宅に10アールほどのミニ芝桜公園をつくった。
その見事さに藻琴山温泉管理公社から「芝桜で村の憩いの場をつくってほしい」と頼まれた。
「もともと畑も小さく、馬で畑を耕していた。そんな状況だったので、大好きな花に専念でき、村の人や温泉客に喜ばれるなら」と、離農までして公社職員に転身した。58歳の時だった。
当時は3年ほど、芝桜の苗を自宅からリヤカーで運んだ。
試行錯誤で美しさ追求
毎日毎日、陽が昇るころから暗くなるまで、小高い丘一面に生い茂ったカバの木や笹やトクサを刈り払い、根を掘り起こして火山灰地を耕し、苗を一株ずつ植える。
急斜面なので機械は使えず、一人っきりの手作業……字に書けば簡単だが気の遠くなるような作業であった。
1年に1ヘクタールほど開墾し、約8年で現在のピンク色の丘に変えた。
その後がまた大変で、スギナ、スカンコ、タンポポなどの雑草抜き、1ヶ月かけて一巡すると、また新しいのがはびこった。
10月まで五巡してその年が終わる。毎年その繰り返し。生やさしいものではなかった。
「花は人を見ている。愛情を込めなきゃ駄目。手を抜こうものなら、てきめん不機嫌になる。丁寧に扱うと、きれいになる……花作りは子育てと同じ」
信念の汗が、温泉の丘をピンクの芝桜をまとった一大公園と化した。
「これが東藻琴の芝桜だ」と見事な景観とスケールで、多くの人を呼び込んでいる。
平成四年に「もう年だから、区切りの潮時だ」と、1度目の退職をしたが、花が機嫌を悪くして呼び戻された。かなりひどい状態だったという。
気がつけば80歳を超えていた。
「右ひざの関節炎のため、平成11年限りで隠居させてもらいました」。中鉢さんは満足げに「引退宣言」をした。
芝桜とともに
もちろん中鉢さんだけではなく、多くの方がこの芝桜公園を育ててきたし支えてもきた。
現在駐車場では、マイカーや大型バスが間断なく出入りする。「空から見た芝桜の丘へ」と、女満別空港からタクシーをとばしてやってくる人がいる。
ある観光客が「公園のてっぺんから見渡すと息をのむ。眼福とはこのことか」と。
180度に展開する大パノラマは芝桜の海のようでもあり、桜色の波がたっているようにも見える。
平成10年度から平成12年度までに、利用期間の延長による集客増を図った芝桜公園の周辺整備が概ね完了した。
入場者の大半を占める団体ツアー客の入場の効率化を図った。
また、新たに整備されたイベントステージ。今後の村内の各種施設との活用による体験型観光を目指した、簡易オートキャンプ場もお目見えした。
観光協会において主要道道網走川湯線を「芝桜花街道」とネーミングし、宣伝看板を設置した。芝桜のプランターも登場した。
平成18年には東藻琴村と女満別町が「大空町」として合併。
老朽化した「藻琴山温泉施設」を解体撤去。安定的な来園者の確保を目指し、魅力的な風景づくりや、少子高齢化や福祉社会に対応できる、利用者の利便性の向上を図った誰もが楽しめる公園づくりに着手。
平成21年までの2ヵ年芝桜公園再整備により、芝桜の景観を楽しみ、芝桜の中で楽しみ、人が集い賑わい、水と緑が織りなすくつろぎのひとときを、高齢者や障がい者に配慮された安心・安全な、10ヘクタールを有する芝桜公園に生まれ変わった。
私たちはこの芝桜を観光資源としていつまでもいつまでも大切に後世に語り継ぎたい。
今日もまちのあちらこちらで芝桜を見かける。
私たちは、芝桜の国の人なんだと言っても過言ではない。
芝桜って?
芝桜はハナシノブ科の多年草でフロックスの一種です。北アメリカ原産で、花壇の縁取りなどに栽培されます。
花の形がサクラに似ており、 芝のように地面をおおって咲くので芝桜と呼ばれています。
4月~6月上旬に、直径1.5センチメートルほどの赤、桃、白、紫の小花を咲かせます。
芝桜公園はこの時期に、約10万平方メートルの園内が芝桜の花で埋め尽くされます。
芝桜公園の歩み
昭和52年 | 一反ほどの芝桜を株分け |
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昭和57年 | ジャンボすべり台まで植栽 (現在ジャンボすべり台は撤去されている) |
昭和58年 | 南斜面に村のマークを植栽 西斜面植栽開始 |
平成元年 | 西斜面に牛のノンキーマークを植栽 |
平成3年 | 西斜面の植栽を終え、植栽面積が8ヘクタールになる。 |
平成20年・21年 | 老朽化した芝桜公園の再整備を行い「風景を最大限に演出した最小限の施設で運営する」10ヘクタールの芝桜公園となり現在に至る。 |
「この10ヘクタールに及ぶ山の7割は、私一人で植え付けしてきた。やっぱり愛着がわくよ。たくさんの人に喜んでもらえるのがうれしい。これほどの観光地になろうとは……自分の仕事がいつまでも残り、お役にも立てたと思うと、離農のかいがあったというものさ」
芝桜公園の「ピンクのじゅうたん」を22年間管理してきた中鉢末吉さんは語り始めた。